『バベル』

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日本では母の自殺?により関係が悪化した父と娘が物語の中心。聾唖の女子高生(娘)は、父とも社会とも不全を感じている。その反動としてハメを外し、誰彼構わず「繋が」ろうとする。そして強度の場所(クラブ)で「異なる」自分に混乱してしまう。
ロッコではこじれた夫婦関係を修復するべく旅行中のアメリカ人夫婦に悲劇が起こる。妻の鎖骨に銃弾が貫通。必至で介抱をしようとする夫は言葉が通じない場所ゆえに、「繋がる」事が出来ず、ここでは「異なる」自分達の無力さを知る。
メキシコではアメリカ人の子供を預かるメキシコ人のベビーシッターが、息子の結婚式にどうしても出席しなければいけない状況に悩んでいた。仕方なく子供も一緒にメキシコへ行く。子供も楽しむ。帰り道、国境線で国を超えた「繋がり」が些細な不寛容さで「異なる」関係になってしまう。
ことほどさように、日本、モロッコ、メキシコで起きるそれぞれの物語が、コミュニケーション(個人)の「繋がり・異なり」を描いている。
そして日本、モロッコ、メキシコのそれぞれの物語が交差していく手法はグローバリズム(社会)の「繋がり・異なり」を描いている。
これが『バベル』の通低音。そこから様々な着眼点を見つけることが出来るが割愛して・・・、
簡単に誰とでも「繋がる」ことが可能となった世界では、「異なる」他者、国の気持ちを十分に汲み取る暇がない。
なるほど我々はディス・コミュニケーションから出発する前提を失い、自分の視線だけで強引に「繋が」ろうとしている。
しかし逆だ。「異なる」ことを知って初めて「繋が」り得るのだ。これはリベラリズムの本義(立場の入れ替え可能性)にも連なる。
「あなたが私の立場でも、あなたは生きられるか?もしそうでないのならそれは公正な正義ではない。」
『バベル』で描かれるこのリベラリズム的メッセージは、やはり切羽詰まった時代の根本的で究極的な問いとなる。
ただ、この問いへの答えを模索しないとバベルは崩壊するだけ。アメリカのバベルの塔が崩壊したように。